明治政府が河川水運整備を進めるためにオランダから盛んに技術を導入している中で招かれたアントニー・トーマス・ムルデルが、児島湾開墾のための測量を行い、方法について報告したのは明治14(1881)年のことです.ここには、「やがて開墾可能な区域1300ha三区、五区」として現在、岡山市南区浦安、築港、海岸通、南輝、あけぼの町、並木町、立川町、市場になっている土地の造成も含まれていました.資金提供者が藤田伝三郎に決まり、起工許可が下りるころになって開墾反対が盛り上がり始めます.許可が下りた4日後の5月28日、千坂高雅知事の岡山県議会では、2名差で開墾取消提案は否決され、翌日、同じ意見を再提出して「議場は如何なる活劇を演出せんも知るべからざる有り様」となり、閉会します.その後、反対派は団結して49名の議員(代表 香川眞一、井出毛三)は直接内務大臣に請願に出向くことになりました.当時の与論は、起工許可を「県議会を通さず、関係町村の意見もきかずに権利※を無視した違法行為である」と捉えていました.そのことは、内務大臣、知事宛に堤出された取消請願書が数十件に及んだことに現れています.請願書の内容は、用水、排水、漁業、運輸、水害、将来の地方税負担、許可手続き上の不法についての不満、不安が主でした.折しも明治25(1902)年7月、明治26(1903)年10月と立て続けに起きた大洪水で被災した結果、当時の千坂知事から藤田組へ児島湾への流入河川の測量、雨量調査、河口の流速や潮流の測定等が命じられます.さらに、次の河野忠三知事は県議で構成する調査委員会を立ち上げて工事は延期されますが、明治30(1907)年に高崎親章知事に交代すると調査委員会と知事の対立の構図が明確になっていたとろへ、翌年、高崎知事に対して広島土木監督署が測量を元にして、内務省が一区(彦崎村地先)、二区(東興除村地先)の起工許可を通知します.多数意見は起工に反対であったにも関わらず、調査会も知事によって解散され、一区、二区の起工式および着工後の明治33(1910)年7月25日、多額納税者選出貴族院議員の野崎武吉郎と田辺為三郎による調停で和解が成立します.(福浜村誌, 1927)
昭和8年3月31日の工期期限を延期しようとしていた昭和6(1931)年2月、沿岸の漁村と水利上の利害を危惧する倉敷ほかの町村から開墾取消の声が再燃します.20年前の調停の結果、受け取った転業補償金と八浜の藤原元太郎の資金を注ぎ込んで行政訴訟を闘いますが、22町村でスタートした組織は、やがて17町村になり、業務を拡大していた藤原元太郎の事業は国際情勢の変化の中で失敗し、パトロンを失います.昭和13年、評定官阿部文治郎は、訴訟費用負担と開墾許可の調整で和議を成立させたことで阿部池に名前を残し、児島湾干拓はさらに邁進することになりました.(藤田村史, 1977)
左上:現在の地図上の赤円付近、右上:ヌートリアが生息する阿部池、左下:三区五区造成前にあった干潟
【最後の漁場争い】
備前と備中、あるいは八浜と妹尾の漁民の間で大きな漁場争いが起きて国境の標石が置かれて間もなく興除の新田ができ、さらに50年ほどたった1875(明治8)年に再び漁場争いが起きました.今保と八浜の白魚漁場に青江の持網舟が数艘入りこんだことが理由です.1879(明治12)年 法律195号に基づいて大阪高裁が出した判決は「天保年間の裁許は無効」とし、それまで児島湾にあった特権的な慣習を完全に否定しました.これを受けて八浜は直ちに岡山県に樫木網漁業権利について申請し、正式な許可を得ています.この時代、漁民数が多かった八浜(257名)、妹尾(352名)、青江(130名)のほか、阿津、宮浦、北浦、郡、見石、大崎、福田も合わせると漁民の数は400名近くおり、潮がひいた干潟にはさらに多くの人の姿があったことでしょう.
(文/森千恵)
岡山市史編纂委員会編(1966)『岡山市史 産業経済編』岡山市役所
由比浜省吾(1960)「干拓と漁民(上)児島湾の場合」『史林』 43(3),pp.81-105,京都大学文学部内史学研究会
玉野市史編纂委員会編(1970)『玉野市史』玉野市役所
【うなぎのにぎりとり名人の話】
ウナギのにぎりとり名人だったという竹原竹二郎さんは、1884年に青江で生まれました.竹原家は下級武士の家です.小学校を卒業して兄の喜平治さんといっしょに漁船に乗り込んで漁で生活していました.1923(大正12)年に分家して青江部落の漁業権を譲り受けました.当時、青江には舟で漁をする家も干潟で漁をする家もありました.舟の漁にはゴネアミ(五人網)、掬い網、持ち網、建網、四ツ手網、投網があって漁場は海に出てクジで決めます.一方、干潟漁は一定区画内ならどこでも自由にできる漁でした.竹原さんは舟と干潟の漁の両方をしていました.青江部落にはウナギ問屋が3件あって漁師に現金で支払ってくれたので零細な干潟の漁民には心強い存在でした.干拓で漁場が徐々に狭くなってきたために舟だけでは生活できなくなり干潟の漁民が増えました.やがて、それまでは勝手に捕れていた漁が大正の終わりの頃には鑑札制になったのです.
「うなぎの“にぎりとり”といっても、実際は“にぎる”のでなく触るのです.人間の手であることを感づかれないようにうなぎに“触れる”のですよ.そして、“にぎった”瞬間に、そのウナギの目方がわかれば一人前です.」
(文/森千恵)
湯浅照弘(1964)「岡山県児島湾の漁撈ー竹原竹二郎翁聞書」『日本民俗学会報』34,pp.38-41
【漁師とは違う目で海を見る人々】
児島湾の歴史を通じて、もっとも存在が大きかったと思われる樫木網漁師の村の活気が少しずつ失われていく一方で、湾に活気をもたらしていたのは養殖事業と干拓事業です.
それまでの内湾の価値とはまったく次元が違う生産を期待していた人たちが、児島湾のまわりにもいました.山口県出身の藤田伝三郎と八浜の醤油問屋出身の藤原元太郎です.藤田伝三郎が干拓に乗り出す一方で、藤原元太郎が貝養殖を中心とした水産業に積極的に乗り出すよりも30年ほど早く、児島湾は漁師の海から養殖業者の海へと変わりつつありました.1851(嘉永4)年に外波崎と高島で養殖を行うことを池田家に出願した西大寺の蔵森忠廣が小竹の海苔皹を用いて試みたところ、質の良い海苔が収益をあげ、1862(文久2)年には皹にする小竹を倍にして養殖が行われました.明治になって水産試験場が児島湾で養殖実験で使用した場所も同じ地点です.
貝養殖も、1600(慶長8)年にモソロ牡蠣の名前で17haほどの規模での養殖が行われた古い記録もありますが、海苔・貝とも養殖が本格的に行われ始めたのは、児島湾漁師の勢いが明治漁業法施行以後に一層衰え、漁民以外の価値観が前面に押し出され始めた時期と思えるこの時代です.貝の養殖会社が濫立する契機となったのは、1872(明治5)年に行われた藻貝(サルボウ)の試験的養殖と、それに続くハイガイの中国向けの輸出です.有明海からアゲマキが移入されたのもこのときです.また、スミノエガキが1909(明治42)年に佐賀県久保田村から2年生牡蠣を《妹尾潟》、《大潟》に撒布されています.
栄華を極めたという樫木網漁師が知ったら捨て置けないであろうくだりが、1903(明治36)年の水産試験場報告にはあります.「・・・本県の水産業で進歩したものもあるが多くは極めてお粗末で古い方法をそのまま続けるばかりで学理応用は殆ど見られず、漁業経済という考え方はなく、ただ目の前の小利に汲々として頗る寒心に堪えない.子孫相踵き次第にその数を増加し、特に維新以来沿岸では農業の傍ら漁撈に従事するもの続出したるため、限りある地先海面の漁場は狭隘で漁業利益は一層減っているが、濫獲酷捕甚だしく、今では2、3種の回遊魚のほかは寸分の稚魚も根こそぎ漁獲してしまい、近年は内海の漁を止めて他府県または韓海に出稼ぎに行く者もあるが、数はわずかで、漁法も漁場も同じ場所で同じことを繰り返すばかりで遠洋漁業などに発展させようとするものはなく、県下の水産業者のほとんどがこのような業態で生活している.1割程度は淡水魚業者であり、製造業では製塩業以外ではナマコ、エビ、ハマグリとわずかに海藻はあるが改良がされないために市場での評判を得る程でもない・・・」
これまでのところ、海を壊して来たのは目の前の小利に汲々としてきた漁師よりも「資源保護」、「漁業経済」という言葉を使い出した人々に見えますが、両者の言い分は公平に裁かれる機会はまだ作られていません.
2015(平成27)年、児島湾の漁業協同組合正組合員は海苔養殖を営む人だけになっており、養殖自体は湾内では行われなくなりました(岡山県備前県民局).
(文/森千恵)
小林久磨雄(1915)『邑久郡誌』第2巻, 私立邑久郡教育会
平田英文(1956)『灘崎町史』, 灘崎50周年記念事業特別委員会灘崎町報道委員会
岡山県(1902)『岡山県水産試験場業務報告.明治35、36年度』近代デジタルライブラリー岡山県水産試験場業務報告http://kindai.ndl.go.jp/
由比浜省吾(1960)「干拓と漁民(上)児島湾の場合」『史林』 43(3),pp.81-105,京都大学文学部内史学研究会
岡山県水産試験場を県下児島郡八浜町に設置す 明治35年2月7日岡山県知事 吉原三郎
岡山県(1906)『岡山県水産試験場報告書』
【1000年以上の漁撈産品】
岡山市大内田奥坂遺跡(弥生時代末期から古墳時代初めの集落)から出土しているハモ、クロダイ、ハタ、ダツ、スズキ、コチ、ニベ、フグ、ヒラ、ウナギは
「私は淡水湖となる直前の児島湾岸に生まれ育った経験から、奥坂遺跡の魚種が、昭和の初めの児島湾の主要な海産物とまったく共通している点を実感し、自然界からの獲物が長期にわたって変わらないことに驚く.これにハゼ、ママカリ、イカナゴ等々と骨が保存されにくい小魚の類を加えたのが、近世・近代の児島湾の漁獲だといえる」
間壁忠彦(1991)「瀬戸内の考古学」『瀬戸内の海人文化』小学館
藤田村で人々が生活をはじめて20年ほど経ったころには藤田組は事実上破綻していた.後に続く3区・5区工事(現在の浦安および岡南工業地帯、阿部池周辺)を、起工直前で工事自体を中止することを訴える陳情書が堤出された.
大正11(1922)年大日本帝国陸地測量部地図より
昭和7(1932)年「児島湾開墾延期許可取消陳情書」に連名した主な漁協
内務大臣、農林大臣、岡山県知事宛の陳情書は沿岸の22漁業協同組合の連名で中心になっていたのは八浜の貝養殖を独占していた藤原元太郎だった.生物および環境についての資料は少ない近代の児島湾の様子を窺う事が出来る資料としても、「自分たちの海を守る」という意思が示されている資料としても貴重だと思う.以下に原文を読み易く改変してある.
昭和7(1932)年現在の児島湾で捕れる重要水族には、次のように30種類以上います.
スズキ、フグ、イシモチ(シログチ、ニベ)、マナガツオ、コチ、イカナゴ、サヨリ、シラウオ、ウナギ、ハモ、クルマエビ、アミ、クラゲ、シャコ、ベイカ、ハイガイ、モガイ、アゲマキ、カキ、ニシ、ガザミ、ノリ(このほか、不明水族:扁小魚、状鰻)
このうち、シラウオ、アミ、クラゲ、ベイカ、ハイガイの5種は児島湾の特産で岡山の名産です.シラウオは正保年間に熊澤了介が江戸から移植して以来蕃殖良好で、岡山の名産として珍重されています.
アミは漬アミ、干アミとして出回っており、漬アミは備陽記にも「備前第一」と評価されており、現在では京阪神、紀伊、伊勢、近江、四国など販路が広がっています.
ベイカは独特の珍味で、味付け品を缶詰にして、神戸、東京に出荷しています.
ハイガイは、天然と養殖があります.養殖は安政年間に興り文久2年に開始しました.明治に入り非常に盛んになりました.生産額は日本一であり、輸出貿易品として注目されています.
カキは身の肉付き豊肥で脂肪をたっぷりと含んでおり、その味は特に京阪神方面で人気があります.文政年間以来の養殖実績は長く堅実な経営を進めています.昭和7年時点で児島湾のカキ生産は、県内総生産額の7割を占めています.
ウナギは「児島湾の青」というブランドで大阪市場では格別の評価を受けています.国内第一のウナギ消費地である大阪で評価は、即ち日本国内の評価を意味します.
このように、カキとウナギは児島湾の特産ではありませんが、品質が非常に良く、岡山の名産と言えます.
アゲマキは生食ならびに味付け缶詰加工して販売されています.大部分は加熱味付け・乾品として中国に輸出されています.
海苔養殖の開始は明治6(1872)年ころで、明治40(1907)年になって漸く事業価値が見いだされました.品質も良く、広島・阪神方面に販路をもつ将来有望な水産物です.
以上、児島湾の水産物が発生/成育にとって豊かな環境を維持し、さらに良くしていきたいと願い、この湾に漁業の慣行をもつ児島、都窪、御津、上道4郡22組合は共同して湾内一円を地域とする専用漁業権を設定し、我々組合員は、この漁場を愛し魚介類の蕃殖を保護し、各自の福利増進と漁村の振興を図り、漁業者4500名の経済の安定を保持してきました.
明治39(1906)年、約1700haの開墾地(藤田村)の完成で沿岸漁業は打撃を受け、行き詰まり、漁獲は漸減しているが、それでも年間100万円の漁獲で辛うじて生計を保持している状況です.
期限が近づいている藤田組第二期工事(三区五区~六区、七区工事)によって約3700haの児島湾が開墾されることによって漁場は約1600haに縮小することになります.これは、漁業で生計を立てている漁民およびその家族27000人余りの者が忽ち生活の糧を失うことを意味し、貧窮困迫に陥り「餓莩ヲ待ツアルノミニタレルヤモ」しれません.これは、単なる杞憂とは思えません.人道上極めて重大なる社会問題であり、一同、日夜痛心憂慮に堪えません.
八浜町漁業協同組合 甲浦村漁業協同組合 大崎漁業協同組合 槌ケ原漁業協同組合 宇藤木漁業協同組合 灘漁業協同組合 彦崎漁業協同組合 西興除漁業協同組合 東興除漁業協同組合 妹尾漁業協同組合 福田村漁業協同組合 今保漁業協同組合 芳田村漁業協同組合 青江漁業協同組合 三福漁業協同組合 浜野漁業協同組合 平井村漁業協同組合 三蟠村漁業協同組合 沖田村漁業協同組合 升田漁業協同組合 光政村漁業協同組合 九蟠村漁業協同組合
昭和7年11月10日に八浜町長 逸見静雄宛に提出された陳情書(内務、農林2大臣と岡山県知事宛に再提出)より
[編集/森千恵]
児島湖内魚種別漁獲量調査(児島湾淡水魚業協同組合資料による)
単位/t
魚種 |
1956(昭和31)年 |
1959(昭和34)年 |
コイ |
|
93.750 |
フナ |
224,062 |
598.5 |
ウナギ |
121,875 |
262.5 |
ボラ類 |
39.187 |
78.75 |
エビ |
3.750 |
19.5 |
ハゼ |
78.187 |
45 |
ハモ |
17.812 |
|
エイ |
40.687 |
|
コノシロ |
35.812 |
3.750 |
サヨリ |
47.625 |
75 |
スズキ |
10.312 |
45 |
ワカサギ |
3.750 |
30 |
白魚 |
3.750 |
0.75 |
雷魚 |
5.625 |
75 |
シジミ |
3.750 |
37.5 |
その他 |
|
|
合計 |
630.559 |
323.75 |
藤田村史編纂委員会編(1977)『藤田村史』岡山市役所藤田支所
児島湖内魚種別漁獲量調査(児島湾淡水魚業協同組合資料による)
単位/t
魚種 |
1967(昭和42)年 |
コイ |
88 |
フナ |
1100 |
ウナギ |
300 |
ボラ類 |
190 |
エビ |
10 |
ハゼ |
30 |
ハモ |
|
エイ |
|
コノシロ |
|
サヨリ |
|
スズキ |
2000 |
ワカサギ |
|
白魚 |
|
雷魚 |
|
シジミ |
|
その他 |
|
合計 |
1910 |
藤田村史編纂委員会編(1977)『藤田村史』岡山市役所藤田支所
児島湖内魚種別漁獲量調査(児島湾淡水魚業協同組合資料による)
単位/t
魚種 |
1972(昭和47)年 |
1974(昭和49)年 |
コイ |
17.2 |
11.1 |
フナ |
1900 |
1344 |
ウナギ |
9 |
7 |
ボラ類 |
10 |
10 |
エビ |
10 |
11 |
ハゼ |
|
|
ハモ |
|
|
エイ |
|
|
コノシロ |
|
|
サヨリ |
|
|
スズキ |
|
|
ワカサギ |
|
|
白魚 |
|
|
雷魚 |
|
|
シジミ |
|
|
その他 |
8 |
7.2(モロコ、鯰、雷魚等) |
合計 |
1954.2 |
1390.031 |
藤田村史編纂委員会編(1977)『藤田村史』岡山市役所藤田支所
沿岸の人々の社会、暮らしに焦点を当てて児島湾の歴史をふりかえると、5つの時代に分けることができる.
1) 吉備の穴海の時代、2) 海岸線が最大の時代=漁村/漁民最盛期、3) 漁場争いが消えた時代=興除新田が登場、4) 藤田村の干拓民と漁民が干潟でくらしていた時代、5) ポストムルデルの時代=戦後の国営干拓時代
明治から昭和までの水産物統計を見ると「試行錯誤の末に諦めてしまった」という印象をもつ。明治12年、13年は「海・川・船」をキーワードにしたらしい枠で大きくまとめられた漁場3カ所と生魚、塩干魚の輸出入の元価程度が報告されている。これは撮要録※にある「〜郡海河池之部」という感覚の延長だろう。明治14年になると、漁浦ごとの船数、漁民数、水産物一覧が作成され、以後表記が少しずつ修正されながら項目が増えていく。その過程でも、《浦》が郡ごとにまとめて記載されるなど、海の価値観が陸のものに置き換えられていく様子が読み取れる。浦ごとの漁獲物ではなく「備前海」「備中海」「その他の諸川」にまとめて記述されており、漁村ごとの特徴はわからなくなってしまっている。
明治35年には、それまでの「漁業」が「水産業」となり、「漁船」(サイズごとの船数、新造漁船、廃用漁船、難破漁船、漁網、新製漁網)、「漁獲物」(漢字表記、ひらがな表記は年により異なる)と、新しく「水産製造物」「食塩」「水産養殖」が加わり、明治38年には「公・私有水面」という概念や「遠洋漁業」が登場する。
三区五区(現在の浦安から阿部池を含む岡南工場地帯周辺)の潮止工事が完了した年の岡山県統計年報はカラフルだ.
水産の部は、水産業者(水産漁撈、水産製造、養殖の男女別人口)、漁船(新造船、廃用船)、水産物総額、漁獲物(市、郡別の魚類価額、貝類価額、その他の水産物価額、藻類価額)、水産製造物、食塩、水産養殖(養殖場数、面積)、遠海出漁の項目から成る.
漁獲物のうち、児島湾に関係していると思われるものは以下の通り.
いわし、このしろ、あゆ、こい、うなぎ、いな、まながつお、にべ、ぐち、ひら、はも、すずき、あみ、こち、あなご、しらうお、えい、はぜ、げた、つなし、ままかり、せいご、なまず、ふな、どじょう、かき、はまぐり、はいがい、にし、もがい、たいらぎ、あげまき、まて、おおのがい、しじみ、いか、たこ、くらげ、淡水かに、鹹水かに、すっぽん
また、児島湾に関係していると思われる養殖は以下の品目
うなぎ、ぼら、かき、あまのり
1899年から1969年の岡山県統計報告を繙くと、過去70年で突出している児島湾締切堤防工事完了前の漁獲量が目を引く.ただし、この間の7年度に渡る年報は、調査方法/項目/記載様式、いずれも統一されておらず、漁獲地域についても推察するしかない部分が多い.この、資料についての信憑性の実態そのものが、近代から現代に至っても政策上、常に流動的な水産業というものの位置を示しているといえる.