1970(昭和45)~1971(昭和46)年にかけて湯浅照弘氏(岡山市海吉)が採訪された記録を読み易く整理したものです.
阿津の樫木網元は1種類の網を10数個所有し、家の敷地には広い網干場があった。彼らは大漁師と呼ばれた。阿津村の人々の生活は何らかのかたち(網元、小漁師、加工業など)で樫木網漁業に関わっており、阿津八幡宮を中心に団結していた。阿津の大漁師が漁に加わっていたのとは異なり、北浦の大漁師は経営者として網子、沖人といわれる小漁師を雇傭し、直接漁に参加することはなく、酒屋、醤油屋などを営む商人であり船がもどったときに仲買人と魚の売買をしていた。因に北浦は元々郡の出村として納屋集落が発展したものといわれている。阿津、北浦いずれも樫木杭は固定されていた。中でも阿津の大漁師は個人で多くの地元漁民を雇って行っていた記録があり、改良され経費人員などが大幅に削減されるようになったのは明治13年のことである。やがて樫杭を抜くことに特化した仕事が登場し、大漁師や地元の漁民の中に専門に請負うものが出てきた。杭一本当りの賃金で支払われるように変わりつつあったが第二次世界大戦中の人手不足に伴って樫木網の大漁師が協同で樫木普請を行わざるを得なくなったようだ。樫杭をぬくのは夏の土用が過ぎてからで一日に17人〜18人で行い、古い杭を抜いた後に新しい杭が打ち込まれて来た。阿津、北浦と異なり、八浜では漁ごとに杭を引き上げて船に積んで持ち帰る方法が取られて来た。
北浦では13戸の樫木網漁業者が昭和に入っても漁を続けており、昭和45年(1975年)ころにも8戸が残っていた。阿津の沖でも、明治以降65帖〜98帖の樫木網が建てられ、16軒の大漁師が漁を行っていたようだが徐々に減り、昭和23年(1948年)に七区堤防が完成すると最後まで残っていた2カ所の樫木漁場でも漁獲がなくなって止めたという。
阿津の漁場は15mある網が破れるほどの潮流に勢いがあるところで、春にはシラウオ、冬にはエビ、カニ、ベカ、夏にはイカ、アカエビ、マナガツオを網の種類を変えて捕っていた。漁の中心は秋から冬にかけてのアミ漁で、一晩に2000貫(約7.5t)もの水揚げは普通だったという。しかし強い潮で魚が傷み、北浦、八浜に比べて阿津のものは安く取引された。このことが塩漬けアミ、干しアミ、クラゲの塩辛などの加工業を発達させたようだ。
北浦ではシラウオ、エビ、ベカ、ハゼ、ツナシ、コノシロ、ママカリ、グチなどの雑魚漁が中心であった。
八浜の漁は、カタカン(寒)があけて海水がぬるむ2月、3月に児島湾にやってきて子を産むアミを捕るアナアミ漁に始まり、その後4月、5月はベカ、エビ、カニ、シャコ、アカハゼ、ツナシなどの雑魚を捕る.続く5月半ばから6月にかけては、子を産んだ後の大きくなったアミを捕り、7月になって瀬戸内海に出て行くアミを捕るオチアミ漁があり一旦漁期が終わって網の手入れをする。8月になると再びベカ、エビ、ヒラゴなど雑魚捕りが10月頃まで行われる。この夏の短い期間には四ツ手網漁をするものも居た。10月から12月まではアキアミ、アラアミ捕りがあるが、アラアミはいないときもあった。アキアミが捕れなくなる12月に入ると、倉敷川、笹ヶ瀬川河口でヒールを捕るようになる。これは農家の肥料や魚の餌になり、笹ヶ瀬川河口のイモチョウという魚屋に買ってもらっていた。冬にアミが捕れない季節には、阿津でも北浦でも樫木網によるヒール捕りが行われていた。
(「岡山県旧児島湾の漁具と漁法の考察」から抜粋要約)
樫杭はカシグイ、カシボウ、カシキボウ、マルタ、サオ、クイ、ボウ、マキなど色々な呼び方がされている。材はナラガシ、ホンガシの枝が少なく真っすぐなものが好まれたようだが、漁ごとに持ち帰る八浜ではスギが使われている。買い付けた先は川上郡、御津郡、湯原、勝山、津山、高梁、勝山、落合、井原などで、いずれも高瀬舟や筏による運搬が秋の彼岸の頃に行われた。3つの集落ごとに杭の大きさは異なり、漁網の種類、網目の大きさ、網口の大きさ、長さは対象種ごとに変わっていた。ここに例示した図は阿津の樫木網である。
湯浅照弘, 旧児島湾の漁具と漁法の考察, 1975 より
私の父は貝ボタンを製造することを明治32年から始め、ドイツ人を雇って約6年の間、機械で貝ボタンを作りました。家には花筵の機械編みをなし、樫木網普請(樫木の杭打ち)にも機械を取り入れて人力から機械にやらせるようになりました。父は《筒井さんの寺子屋》で学びました。それほど裕福な家だったわけではないですが、学問を好んだようです。氏子総代を務め、村の人々からあまり悪く言われませんでした。体は小さく、5尺2、3寸(157cm)で酒が好きで、また菓子も好み、将棋、碁を愛した人です.3年ほど病を得て亡くなりました。
大戦(第一次世界大戦)後阿津地区には樫木網協同組合というのが樫木網漁家16軒で作られました。父は樫木普請を副業としていました。一艘の舟に8人ほどで樫木杭を打ち込む作業に加わっていたのです。作業は2隻の船によって4箇所に杭を打ちます。
大風が吹いた後には児島湾ではウナギがよく捕れたものです。樫木網漁でも大風の後はウナギがよく捕れていました。昭和23年まで樫木網をやっていました。樫木杭の長さは70尺(21m)でした.
樫木の網にも種類があり、エビ網、アラメ、縄編み、アナ網、春カケ網がありました。
エビ網は、シラウオを捕るときは網糸が細くし、アミを捕るときは網糸が太くします。網の大きさと編み目は同じでした。
アラメでは、夏にイカ、イワシ、アカエビなど捕ります。網口の編み目が粗く、網糸が太く、網尻は編み目が小さくなっています。
縄編みは、藁縄で作った網で雑魚を捕ります。児島湾にクラゲが多く発生すると、この網を使います。ヨツメという大きなクラゲが入りました。夜光虫が編み目から入りやすく魚が多く捕れることがあり、イカなどを捕ります。潮の流れが弱いときには5月末から6月まで、この網を使います。
アナ網は樫木網の中でも長さが短く15尋(27m)くらいで、エビ網は長いものでした。
シラウオ網の樫木には3人の漁民をやといます。春カケ網は春と秋にカニ、エビ、ツナシなどを捕ります。
樫木網でとれた魚はアサイ屋、ハマモト、南部、山根などの仲買人に買い取られます。魚の勘定はヒトシオ勘定といって、15日間ごとに現金化されます。
樫木網漁でよくとれるのは、春と秋でした。樫木網の網元には大磯吉松、モリモトケイザブロウ、ナンバサワタロウさんなどがいました。
樫木網の樫木杭の普請に使うアワゾウ舟も三隻新造しました。藤原サダキチさんから材木を貝舟大工にアワンゾウ舟を造らせました。漁師舟の櫓は刃の部分※の長さ1丈4尺(4.2m)、ウデ※の長さ7尺(2m)、風が吹くと矣などワキロを使って※いました.樫木杭を抜く道具にダイオ※というものがありました.竹でこしらえてありました。阿津では、樫木網は潮ごとにあげます。網を干すのはアボシといいます。樫木網を入れる網納屋もありました。樫木杭に樫木網を設定するときカギという道具を使います。カギにはシタカギ、ワカギ、ナカカギがあり、ワカギが上位、ナカカギが中間、シタカギが下位の部分の樫木網を設置します。カギの材料にはモロマツ、樫、松など使っていました。樫木網のウキ(浮木)をシリウケといいます。
樫木網の中でも、短い杭に網をかける方法はタテガケといいます。ずいぶん昔にはこのタテガケによる樫木網が北浦地区に4軒ありました。フジワラゴロキチ、イナバマツタロウ、ナベモトキチロウ、カナダニイワタロウがやっていました。北浦地区の樫木杭は短かったために樫木杭にササエをする必要がありませんでした。オキノト(漁場の名前)では1丈(3m)のネツギを樫木杭の補修のときに使っていました.オキノトには大型の《タテカジ》も設置しました。
児島湾六区の干拓をやりはじめてから潮が動かなくなりましたが、それでも樫木網では魚がとれていました.樫木網漁は児島湾の奥が淡水湖になるまではやっていました。阿津地区の樫木網は盛んで、阿津の漁師をたのんで樫木漁業をしておりました。
樫木杭を買うのに最後の頃は苦労しました。それまで県北の人が樫木杭の注文とりにきていたのですが、戦時中より注文に阿津に来なくなりました。高瀬舟が来なくなり、筏にも流してくれなくなりました.以前には、高瀬舟に大きな樫木を1~2本積んで阿津に運んでくれたこともありました。樫木杭の長いものは12尋(21m)短いもので10尋(12m)です。樫木杭の根元の直径が6寸(18cm)以上のものでないと樫木杭では取引ができなくなりました。漁のときはオオリョウ(大漁)舟に豊島産のクドを必ず積んで、舟で煮炊きしました。コギツ箱に米を入れます。樫木杭を打ち込む作業のときも同じです。
北浦地区の漁場で、児島湾締切のときまで残った最後の漁場は松尾沖のニシザオ、マエザオ、オキノト(コオリザオ)との3漁場でした.北浦の人で樫木網の漁場で網を張っていたのはモリモトクニイチロウ、オオシマタウタロウ、ニシナカツルキチ、コモリヨシオ、ハシモトエイザブロウ、ヤダニイハチ、ハシモトイチゾウ、ハマモトリウヘイ、オカモトエンジ、コンドウクマジロウ、シマズカワジ、カタギチキンイチ、モリタニカツイチ、オカモトサカイチたちです。一隻の船には樫木網を6帖積みます.北浦の樫木漁場は8軒の共同漁場でした。樫木を建てる場所をクジで決めます。北浦地区でナマ船(鮮魚運搬船)を所有するのはイソガミカメキチ、ヤマモトキサジ、キヨタブンキチ、ツギタマスダさんなどがいました。このほか流し釣り、漕ぎ網もありました.ハゼ箱はタテ19cm、ヨコ14cm、高さ5cmの箱形で、これで児島湾内のハゼを捕るのにはハゼ箱(タテ19cm×ヨコ14cm×高さ5cm)を使いました。
阿津の《ツブイツ》の東にマエガキ漁場があり、ここの樫木網の樫木杭にはササエがありました。
阿津地区の漁民には沖漁師、オカ漁師のふたつがあります.沖漁師の漁船は大きいのです。樫木網のほかには、3尋(5.5m)のウチ投網、5~6尋(9~11m)の流し投網がありました.ヒラ流し網、ツナシ網、ツナシ建網、ママカリ流し網、ベカ建網があり、エイをとるエイナワ、エイカラツリバリがありました。エイ延縄のカラツリ針漁法は名古屋方面の厚み保半島の漁民が来てこの地にこの漁法を伝えたと聞いています。カラツリ針といわれるので餌を用いなかったのかもしれません。チヌ、スズキ、などは流し網で採り、ヒラも流し網で採ります。アナゴ、ウナギ、エイは縄漁で捕ります。タイラギ貝を採取するタイラギ採りという漁具、小さいカギが舟板に付着しているのを採るサメ(カキオトシ)という道具などもありました。
慶応2年に阿津に生まれた理太郎さんは、樫木を改良した人です。明治42年9月26日、56歳で亡くなっています。樫木普請は樫木網の杭打ちのことで、阿津では人夫を雇う訳ではなく漁師仲間の共同作業で行ってきました。一本の樫木杭を打つには、80余人で6時間もかけて来たのです。それを理太郎さんの改良で明治13年以降、1本打つのに15人/2時間で済むようになりました。気難しく厳格な人であった理太郎さんは、世話好きで40件以上の媒酌をし、村のもめ事をうまくまとめる人でした。村会議員を死ぬるまで勤めておりました。理太郎さんの苔提寺は宝積院(真言宗)で、「西聖院精理得寿禅定門」という院号が与えられています。
ヒールには、藺草の肥料にするものと釣りエサにするものがありました。エサにするヒールは児島湾で湧き、肥料にするヒールは倉敷川や笹ケ瀬川などの浅いところにいます。そういうところに居る大きいヒールがウナギカキにかかって来る事があります。樫木網に入るのは、チービールと呼んでました。年によって捕れる量が変わって、困るほど捕れることもありました。少ないときには八浜にあった加門という問屋に渡し、たくさん捕れた年は樫木組合が売る事もありました。妹尾の《イモチョウ》は、肥料用のヒールを扱っておりました。
冬の児島湾で、日和が狂ってアマゴチの風がびゅうびゅう吹くとき、アマケがあるとき、そんなときにヒールがよく捕れます。捕ったヒールは桶などに入れておくと縁に集まります。まん中のゴミを除けて取り出します。田ノ浦(下津井)でいつも行く、《中西の虎さん》と《伊東さん》という2軒の家には篭に入れて生かしたまま、自転車に20貫(75kg)積んで3~4時間かけて持って行きました。少ないときには向こうから買いに来たりもしていました。代金は、直ぐその場でもらいます。たくさん捕れて、四国や大阪に持って行くときは塩蒸しにしました。最後に田ノ浦に売ったのは昭和20年代です。
[聞き手/湯浅照弘、編集/森千恵]
参考:
むかし下津井回船問屋展示
瀬戸内海総合研究会 (1954)『漁村の生活ー岡山県児島市下津井田ノ浦ー』
岡山県倉敷市下津井、田ノ浦周辺 2016年9月
昔からの言い伝えで、太閤様に100里四方で流し釣りをする墨すけをもらっているという.お宮(箱崎八幡様)に預けたものが火事でなくなったと聞いたが、この前行ったらあった.北浦は昔の漁師は釣りが主で、やがてナマセン(活魚船、鮮魚の運搬)をする者が3人くらい出て来て、何艘も船をもってやっていた.四国のオモテまで行ってやっていた.私はのべ縄でアナゴ、ウナギ、エイなどをやり、建網でツナシ、ベカ、ママカリをやり、ナガシ網でツナシ、ヒラなどをやった.火を灯してやるベカタキはやったことがない.ベカはほかに漕ぎ網をやった.児島湾で魚がよくいたのは石のよく出ているところだった.川が流れ込んでいるところ.漁師は、そういう魚がいるところは勘でわかるが、よく捕れるところは人には言わないもんだ.漁師仲間の間でも、お互い隠している.高島の沖でなんやかやの魚が集まるところがあって、仲間にどこで捕るのか聞かれても、その場所は教えなかったんだ.ところが、いっしょに捕るのを頼んだ人が歌を歌うのが好きな人で、大きな声で歌いながら漁をするものだから、みんなに知れてしまったなんということがあった.
[聞き手/湯浅照弘 編集/森千恵]
オキイタは2枚持っていました.幅60cm、長さ180cmくらいの板です.妹尾の《かんやん》という船大工がヒノキで作っておりました.松は重いので使いません.しょっちゅう盗まれるものだから、舟で出る時には舟に1枚、家に1枚置いておきます.オキイタほどよく盗まれるものはありません.そのオキイタの長い方に150cmくらいのハイガイマンガをつけて押すのです.そうして貝を掻きます.妹尾の地先、大崎のあたりが潟漁の漁場で地元の漁民もいたが、文句を言われることもありません.小学校の4、5年生の頃から沖の干潟に出ていました.その頃は、妹尾だけで100人以上の干潟漁民がいたものです.ほかに網漁をする者もたくさんいました.児島湾の干潟を走る澪筋は深く、オキイタでそこを渡って八浜の干潟に行きました.これは誰にでもできるものでもなく、稽古しないとイタで海を渡ることは難しいものだったのです.私は中国に3年いましたが、そのときもイタを使いました.
私はウナギカキもしていました.柄の長さは150cmくらいあって、特に良いのは青江の鍛冶屋が作るウナギカキでした.ウナギを掻くには、3本の刃を胴か頭のところにひっかけます.尻尾を狙うと大抵逃げられてしまいます.長くウナギカキを使っているとちびてくるのですが、自分では直せません.鍛冶屋に直してもらいながら、5年、10年は使いました.使えなくなったウナギカキを井戸の釣りカギに使っていたのだが、井戸に落としてそのままです.井戸を埋めたからそのままになりました.柄の方は焼いてしまいました.
戦争に行くまでカキ養殖もしていました.カキは妹尾の人が、おかずにいくらでも買ってくれたので問屋に売る事はありませんでした.魚屋にあまり売っていなくてカキ打ちしていると買いにきてくれます.干拓が進んできてからは、カキをとりには三蟠の方に行きました.干潟はあまりありませんでしたが、カキやカキマクラを捕りました.淡水湖ができてからも40人くらいは三蟠に捕りに行く人がいたものですが、工場ができて貝がいなくなったから捕る人もいなくなったのです.
[聞き手/湯浅照弘 編集/森千恵]
50cmから60cmのハシリイタは、たいてい松で作っていて、それを横にして押すのをイタオシという.元気でないと、イタオシはできなくて洲崎には何ぼもいなかった.5人か6人はそれでハイガイの小さいのを捕っていた.1升くらいを採って八浜の会社に持って行くと、それが日当になっていた.会社は、そういうのを自分の敷地の干潟で活かす.今(昭和46年当時)では開墾地になったが洲崎の沖の干潟には妹尾の者もやってきて干潟漁をしていた.洲崎の者が妹尾の方に行くことはなかった.ほかに、平井の山から竹をとってきて作ったシジミダマで蜆を採ったりガニツリで蟹も捕った.
[聞き手/湯浅照弘 編集/森千恵]
洲崎の沖でガニダマをやった.36mの糸をつけて、たいてい4つ沈める.舟の右に2つ、左側に2つだ.エサは何でも入れた.川魚でも、大きい蛙の皮を剥いたのでも、肉のスジでも、タチウオのキンキンと光るものでも何でも.潮にはオコリシオ、ダレシオというのがあるのだが、その潮によっては煙草をくわえる間もないほど集まって来て忙しいこともあった.連れたカニは、カニが傷つけ合わないようにハサミを切ったり始末しなければならない.だから捕れるときは飯を食わずにやる.香川の方は密漁になるから、春は行かなかった.旧盆のころはカニは小さく身が無い.秋祭りが済む頃に大きくなって児島湾から出て瀬戸内海の沖へ沖へと出て行く.この出て行くカニを捕る.犬島や小豆島の辺りのカニは児島湾のカニの2倍、3倍の大きさで身がついている.今(昭和45,6年当時)で言えば、そこらで捕るのは密漁になるが40年、50年も前は犬島辺りは児島湾の領分だった.カニを捕りに行って風に吹かれて島で夜明かしすることもある.そんなときには舟で飯を炊き、水がなかったときには、砕石場で石屋が掘ったところに溜まった水を、ボウフラをよけながら茶碗で汲んで飲んだこともある.捕ったカニは、市場に持って行くと捌いてはくれるが問屋や小売人の口銭を払わないで親父が直接売っていた.百姓連中は、おかずにカニを捕っていたから、余計に捕れたときには人にやったりしていた.
[聞き手/湯浅照弘、編集/森千恵]
【船】
大崎辺りの平田舟は長さが7m、深さが50cmくらいの4、5人が乗れるもので、そのほかにハトフネというのがありました.長さは3mないくらい、幅が90cm、深さは30cmくらいの和舟でエブリで操ります.エブリは干潟を船で行き来するには必要な道具で.2mより少し長い柄です.投網をするテントウ(和舟)は、ノシ(船首の木)を短くしてありました.郡や大崎の与太郎様のところの船大工が作っていました.この船で、春は米倉沖に行って漁をします.
【四手網漁】
四手網はヨツデバリとも呼び、ヒカエヅナ、ヨツデザオ、タテカエヅナ、オサエギ、アマという附属具からなります.網の大きさは7mくらいありました.平田舟のトモのところにくくり付けて漁をします.漁民ひとりの漁場は一里四方(約1600ha)と言われています.イナ、アカメ、ボラ、エビ、シャコ、チヌなどを捕っていました.四手網で捕るウナギはオチウナギ(川から児島湾に降りて来るウナギ)で、目方が70~100匁(≒260~375g)あります.色は青紫の大変美味しいこのウナギは、5月から土用までを捕っていました.シラウオは正月から3月までを捕ります.四手網で夜に灯を灯してベカ捕りをするときは、オリモトのときによく捕れると言われました.オリモトというのは、潮が十分に行き届かないところ/ときのことです.四手網も投網もダレ(潮が引いているとき)にする漁です.
【持ち網漁】
持ち網は、袋状になった網の大きさは5m、棹のところは3.6mです.枠の竹はシュモクといいます.これでイナ、アカメ、ウナギ、ベカ、エビ、シラウオ、アミなどを捕りました.昭和30年ころまではやっていた漁です.八浜では船の上からこの漁をして、大崎では漁師が海に入ってやります.
【ウナギカキ漁】
ウナギカキの人は土用の、ウナギがよく捕れる季節には20cmくらいの深さのところを掻いて捕り、冬は40cmくらいのところを掻いて捕ります.八浜には《マンカジ》という、良いウナギカキを作ってくれる鍛冶屋がおりました.カキウチも、この鍛冶屋が作ってくれました.ウナギ桶はトンコロなどとも言いました.これは四斗樽の底をぬいて代用することもあります.
【干潟と養殖】
明治の終わりにクリカエチと呼んだ県の許可地に養貝場のカキハトがありました.宇藤木や妹尾の漁民が、ここにウケと呼ぶ木枠で場所を決めて、一反歩(≒990㎡)くらいの養殖地を持って漁場にしていました.
干潟でハイガイ、チンダイを捕るのは専業の漁師が多く、大崎にはチンダイを買い取る人がひとり居ました.40~50人から買い取れば商売が成り立っていたようです.
干拓されるまでは干潟に出ました.この大崎ではみんな軽い百姓をしていて、潮が引けば《おかずとり》に、どの家からも1人はイタに乗ってカタ漁に出かけて行きました.干潟には、色々な生き物が穴を開けていて、シャコの穴、チンダイの穴、カニの穴、ハゼの穴、ウナギの穴、みんなちがっている.チンダイの穴は上は小さいが、まん中ではそれが堅く太くなっているんです.ここらはぬまりこむがチンダイが穴を掘っているところは堅かった.青江の泥は堅かった.チンダイを手で掘ると、貝は下へ下へ逃げていくのです.腕の付け根まで突っ込んでも捕れなくなってしまう.上手い人は、貝に逃げられないように穴の側面に押しつけて捕ります.大崎には、カネになるウナギだけを専門に捕っていたものは10人くらいいたけれど、そういうウナギ捕り漁師はウナギの穴を見つけると、イタを置いて、穴の口に縁が割れているとか出入りしている型があるとか穴をじっと見るのです.腕が良い者は、穴のどの辺りにヨコになっているとかタテになっているとか、見当をつけて、まるで大根を引き抜くみたいに一発でウナギを掻きあげました.穴の水の動きから見分けるのです.当時は、専業でない素人でも、一日で300gから600gは捕れていました.
[聞き手/湯浅照弘、編集/森千恵]
大崎の漁民は、土用に牡蠣殻をまきます.焼きつけるような夏の熱い潮がカキの子を運んで来るんです.はじめはゴミにしか見えないようなものが1年経つと小指の爪くらいの大きさになります.3年経ってさらに大きくなって、4年で売れるようになるのです.そのカキを《カキアゲ》で、ひとりで舟にひきあげます.潮がよく流れるところでカキは良く育ちます.潮行きが良いところでは、カキの刃口が包丁のように立っています.そういうカキは身入りがとても良いのですよ.ゾロっとした感じの、いつ潮がきてひいたかわからないようなところでは、ろくなカキは育ちません.養殖会社は何十町、何百町という広さで良いところに許可地を作って、舟で行くとガサっと音がするほど蒔きます.大崎の漁民は、会社が使っていなくて潮行きがよいところに牡蠣殻を蒔くのです.
[聞き手/湯浅照弘、編集/森千恵]
私が生まれたときから樫木の権利は藤田組のものでした.私は、毎年契約更新の判を押すだけです.使用料は支払っていませんでしたが契約上、県の税金はありました.藤田組が漁に干渉する事はありませんでしたが、ときどき堤防の石垣を壊す者がいないか監視を頼まれました.
六区の干拓までは、樫木網でシラウオがよく捕れたのは笹ヶ瀬川の下の方です.海が広かった大正の時代がよく捕れた.春にはオチアミ、5月から6月はアナアミ、次は10月.八升桶を40個ほど積んで行くのですが、足りなくて舟に筵を敷いていました.捕れたアミで舟が沈むほどでした.でも、アミは安いから儲けにはなりません.昭和になって桶一杯が50銭から55銭です.物価が違った昔なら、どうにか食べていけましたけれど.
樫木網は一カ所にたくさん張るものです.だから、海が狭くなって来て摩擦も起きました.樫木漁師が譲る事もあった.樫木漁師仲間では、毎晩、網を取り込むとクジをひいて翌日の漁場を決めるようになっていました.クジをする場所も毎日交代です.八浜には、樫木網仲間のほかには、コブクロ、四ツ手網、ウナギカキ、ナワ、投網、全部で6つの漁師仲間がありました.四ツ手網が一番数が多い仲間でした.
[聞き手/湯浅照弘、編集/森千恵]
植松には投網漁と四手網があって、塩干に潮が入るったときに漁をしていました.郷内村の植松から来た蜆売りが、干潟漁民が平田舟に乗ってとった蜆を彦崎で売っていました.そのころは、爪の肉が多くて美味しいカタツメというカニが児島湾にいて、よく捕りました.ゴウトウという胸や甲羅が紫色をしたカニもいました.
彦崎の浜地区にあった漁船は5、6隻です.早くにエンジンを積んだ船もありました.250tくらいの船でも、泥の上にのしあげて停めていました.倉敷川に出入りしていた大きな運送会社は3つありました.三共組、正運組、合同運送です.小串から化学肥料を彦崎駅まで持って来たり、大阪から富士紡績の綿糸を運んだりしていました.このほかに松屋という屋号の家が讃岐まで自分の船で藁を運んでいました.
[聞き手/湯浅照弘、編集/森千恵]
私の家にハシリイタがあります.七区の辺りは、以前バネマクラ(ウネナシトマヤ)、チンダイガイ(アゲマキ)、シャコ(アナジャコかシャコか不明)、ウナギなどがいる干潟で、ハシリイタで貝を捕りにいくのです.ハシリイタは長さ1間(180cm)、幅は1尺5寸(45cm).潮が来れば四ツ手網漁が盛んに行われていました.昭和23(1948)年頃までは七区の堤防のところまで潮が入っていました.満潮のときには干潟のところは大人の背くらいの深さになります.干潮のときには八浜の沖2kmくらいまでが干潟が出ます.ウナギカキのことはここら辺ではメッソウガキと呼びました.潮が高いときには舟の上からコネガキという方法でウナギを捕りました.舟のコベリを使ってウナギカキをテコのようにして海底のウナギを掻き捕ります.底をかいて放っておくとウナギがいる海底には泡が立ちます.浮いた泡を目印にウナギカキで掻くのがコネガキです.ウナギカキの柄の部分はスギやヒノキが使われました.上手な人はコネガキで2、3貫(7.5kg~11kg)はすぐに捕ってしまいます.捕ったウナギは桶に入れます.塩水が入っている川のウナギは美味いです.
そのころは、倉敷川を行く20、30tの船は彦崎で満潮を待って移動していました.茂曽呂地区は漁をする人が多かったところです.
[聞き手/湯浅照弘、編集/森千恵]
阿津は、児島湾の樫木網漁の中でも一番大きな樫木杭を使っていたところです.八浜の樫木の5倍くらい、北浦の3、4倍の大きさです.網も大体が阿津が大きかったです.網目は、シリに行くに従って小さくしてあります.大きい目でも3cmもないくらい、(袋の先の)小さいところは2cmくらいになっています.
阿津は潮引きが早いので、どうしても太い樫木を使うようになります.樫木網をのせる舟は安穏造アワンゾウです.むかしはリョウセン(漁船)というよりイシワリセン(石割船)と呼んでいました.普通のリョウセンの3倍くらいの長さで、丈夫な木製の船でした.魚は、阿津が一番よく捕れました.アミなど、北浦で捕れないときでもここではよく捕れます.大きな杭も、使っているうちに途中で折れてしまうことがあります.そこを接ぐこと、接ぐものをカブセとかダイホウなどと言って、5尺(1.5m)くらいの細長い板を4枚で樫木を挟んで接ぐのです.船2槽に、4人ずつ4カ所について、そのカブセをゴシアゲます(もちあげる).まん中に居る棟梁が指図して、綱をひく(ひいて持ち上げる)のです.わたしの時代の棟梁は阿津のタケハラヘイベイでした.棟梁は樫木の網元とは違う人で、責任者として頼まれた人です.棟梁も、ほかの者も漁師です.漁に行っているものが杭打ちの作業に来ていました.杭打ちには20人が作業します.
ヒトシオ(一潮)は6時間で、ミチ(満潮)とヒキ(干潮)が6時間ごとにあります.樫木は建てられるときと建てられないときがあって、潮が動くときは建てられません.潮で動いて建てられない.潮のヌルミ(潮が止まったとき)でないと建てられません.そういうときに20人で1本から2本を1時間くらいで建てるのです.3本建てられることは、まずない.しかも、一カ所に建てるわけではなくて違う場所で建てるのです.いずれにしても潮具合によります.むかしから、うちの樫木網は6帖でした.4帖だったところに私たちの代で他人のものを買って6帖に増やしました.阿津では5~6軒の家が6帖くらいを持っていました.4帖より少ない家は、私が覚えている限りでは阿津にはいないです.一番多い人でも7帖で、そういう人は悪い漁場も持っていました.阿津の漁場は、大きいのはニシバラ、オオチガイ、キタ、それからキツネの4つです.そこでは阿津の者だけが漁をしていました.湾の奥には阿津の漁場はありません.太閤の(時代にもらった許可に関する)文書が県庁にあったが、空襲で焼けてしまったのです.秋と春が樫木の季節です.秋は瀬戸内海に落ちるもの、春は児島湾に入るものを捕ります.春にはエビとベカを捕りました.魚種にもよるが、若い頃のほうが捕れたように思います.シラウオは海の関係か、段々と捕れるようになりました.
儲けが少なくて組合をつくって仲買を漁師がやるようになりました.戦争で人が少なくなって合同で漁をするようにもなりました.樫木網で捕った魚は、一番は岡山の市場で売ります.その次が西大寺でした.それから小売り.上道から邑久方面に小売りしました.
阿津には、底引き網と海苔養殖で生計をたてて居るひともいました.
高島、鳩島辺りはカワウチと呼ばれる底引き網の漁場です.郡では粗朶漁でウナギを捕っていました.昭和10年頃に、児島湾内でのる船に10馬力の農業発動機を使っている人が出て来ました.その人は、底引き網、モガイダマ、カニツリダマ、アミスクイダマなどで漁をしていました.
[聞き手/湯浅照弘 編集/森千恵]
【漁具、漁法】昭和になってからも宮浦に専業者10人はおりました。延べ縄漁するものが4軒、漕ぎ網漁は4軒、ガネ釣り漁(蟹釣り漁、ガザミ釣り)するものが10人、一本釣りするものが10人でした。ガザミ釣りにハゼ、鮒、イナなどを使います.イナなどは身を2つに開いて袋に入れました.ガネ釣りというのは、カニダマ(金の網)を使う漁です.延べ縄は、ハゼ縄、アナゴ縄、ウナギ縄、ハモ縄それぞれに枝縄の長さや間隔が違っていて、針を100本から180本つけます.針はハゼ縄、アナゴ縄は同じで、ハモナワの針は大きい《ゼンマイ針》です※.
漕ぎ網はミズホ(水帆)を網とは反対につけてある舟で曵きます.水帆の大きさは5尋×1尋(9m×1.8m)で下側に鉛の錘りをつけます.ベカ、エビ、ハゼ、イシガニ、雑魚なんでもとれました.水深があるところでベカ漕ぎ網をするときは、カタホ(片帆)でした.ママカリ、ヒラをとる建網は先祖が始めた漁撈です.今ではなくなってしまった漁法はカニ釣り漁、シラウオ漕ぎ網漁です.漕ぎ網は漁師それぞれに大きさや網目が違っていました.私はシラウオ漕ぎ網は網目が25節でした.
※枝縄の間隔や枝縄の長さなど、細かく説明されています.【枝縄の間隔】ハゼナワ/枝縄の間隔2mくらい、アナゴ縄/3m、ウナギナワ/5m.【枝縄の長さと針】ハゼ縄/25cm、針は8分、ハモ縄/長さ1.5m、針は6寸、ウナギ縄/1.5m、針は8寸.
[聞き手/湯浅照弘 編集/森千恵]
memo 漁法と集落のこと
海を大切にする人々がいたのかいないのかを知りたくて、漁村を構成している集落というものについて調べている.部落、またはその中の小さな区内の漁家では共通の漁業が営まれ、近接する部落とちがう漁を行っていた例が多いことが一般的らしい.漁師の使う漁具はその地区の漁家のつながり、集落の構造を知る手がかりになるようだが、データ不足のため、ほとんどの漁村について実態は不明ということだろうか.日本の沿岸漁村の大漁業部落以外の小さな集落に、何らかの一般的な形態が存在していたのかいないのか、児島湾沿岸の漁村は一般的だったのか特異的だったのか、合意形成ということがある集団だったのかどうか.C.M
参考:櫻田勝徳 (1940)『民俗選書 漁人』 六人社
祖父は大磯芳松、父はヨネイチといいます.父は、私が8歳の頃から問屋に携わっていました.私は昭和3年に商業学校を卒業した後、昭和39年に55歳で退職するまで会社勤めをしており、家業は継いでいません.理由のひとつには、児島湾の漁獲が減ったこともあります.
祖父の時代は、北浦、阿津ともに樫木網が最盛期でした.東児島では私のところが一番大きい樫木の大漁師でした.大漁師というのは、資本をもっていて株の権利を所有しています.私の家は株をふたつ持っていました.専属の舵子がおり、皆ジゲ(地下)の北浦の人です.鮮度が落ちないよう、硬くならないよう、処理した魚を篭に入れて三蟠港まで船で運び、そこからは車力で韋駄天走りです.後ろから若い衆が駆けて追いかけ京橋近くの《上の浜》まで持って行きます.ここに持って行くのは大きめの魚ばかりです.イナの一番大きいシクチ、セイゴよりも大きくなったハネ、チヌ、そういう魚です.祖父がセリに魚より早く着くと「オオヨシ(祖父)が現れると値が狂う」と言われたそうです.その頃は夜寝る間がないほど、年中人の出入りがあって、ダイマル(屋号)は裏門も表門もいつも開放していました.大漁師の家は、他家とは位が高いという感じでした.250坪の敷地は、そこに舵子が網を広げられるようになっています.今、ただの空き地に見えますが、広い土地はみなそうです.北浦で小漁師というのは漕ぎ網をする漁師のことを言います.
父の時代になると、市場が2つありました.波止場から漁船で活魚を積んで旭川を直接上って上の浜に行く場合と、三蟠港まで船で運んだ後、軽便に乗せて中納言まで行きます.そこから車で上の浜、または下の浜に行ってセリにかけるのです.
ほとんどは朝捕れた魚を市場に持って行きますが、夜捕れた小魚を鎌で炊いて炒ります.炒るというのは茹でることです.それを翌日筵に広げて天日で干します.これを「網干にする」といいます.乾いたものは袋に詰めて市場に出します.県庁の辺りに乾物問屋がありました.小売りが生魚を売るついでに売っていました.
樫木網の売り上げの分配は、日が暮れる4時か5時頃に現金で持ち帰ったものを紙に包んで船頭さんの箱に入れて配ります.これを「しきり」と呼んでいました.そのころの稼ぎは現在(1970年)の金額に換算すると年間で20億円から30億円に上ったはずです.干拓までは樫木をやっていましたが、海が浅くなって漁獲がなくなったところで止めました.
[聞き手/湯浅照弘 編集/森千恵]
【活魚船】
わたしは活漁船をもっています.タイ、コチ、チヌ、タコなどは鮮度が求められ、相場の変動も激しいものです.活魚船には《いけま》があります.《いちや船》は鯛の活魚船です.活魚船を作っている大工が北浦地区にいて、活魚船は10艘、松尾地区に6艘、江並地区には機械船の活魚船をもっている人がいました.
【大漁師は龍宮様やエベス様を祀る】
北浦地区の樫木網大漁師は8軒で、それぞれ2艘ずつ船をもち、オカブ、ヒガシ、ニシに漁場がありました.大漁師は龍宮様、戎様を祀ります.お祭りには船に乗り、ミザオを叩いて喧嘩をします.フナダマ様は船の中心に祀り、オズシをつくります.機械船にもフナダマ様はあります.5月5日にフナダマ様のお祭りがあります.
【一本釣り漁民】
一本釣り漁は燧灘を漁場とし、コチ、カレイなどを釣ります.餌はシャクで鉾立村からとってきたものです.最盛期には一本釣り漁師が30人くらい居ました.コチの一本釣りは八十八夜を過ぎると始めます.一本釣り漁師の組合、沖組合というのが昔からあり、50名ほど入っておりました.虫明沖のコチ釣りに20~30名、下津井、鞆地方へ70~80名、糸崎方面のスナミに20~30名が集団の組になって出かけます.針は7分、9分、1寸8分など漁師の好みがあります.吉和漁民はハモ、キスの一本釣りで半月ぐらいは一本釣り漁場に留まります。一本釣りで獲った魚は活魚船が岡山まで運搬します.釣った魚はウチカギを持って〆て鮮度を少しでも保つようにします.〆が下手だと魚がこわばって来ます.播州妻鹿の一本釣り漁師はハモ、コチを専用に釣ります。イケフネのイケマの水が淀むので5貫入りの土俵ドンブリを帆株につけて綱でゆすり船を動かしてイケマの水をかえて中の魚を生かしていました.イケフネはカクホ(角帆)で帆柱の長さ3間、オモに矢帆、中央にモトギがあります。
[聞き手/湯浅照弘 編集/森千恵]