私は、陸よりも海にいる時間の方が長い生活でした.大阪に米を運び、帰りには米倉の製紙会社に運ぶ原料を積んで戻って来ていました.夫婦で船に乗っていて、子どもは兄貴に世話してもらっていました.東幸西柿原地区には船に乗っている人はもう一軒しかいません.農業する人の集落です.児島湾締切堤防ができるまでは、製紙会社の帰りに笹ヶ瀬川で潮を待ちながらチンダイガイ(アゲマキ)捕りをしたこともありました.持ち帰って自分で炊いて食べました.戦争が始まってからは、西大寺と高松の間を50人くらいの兵隊を一度に乗せて往来し、終戦後は児島湾堤防工事の資財を正儀から運んだのです.児島湖ができた後も色々な工事があったので、材料を永安橋の辺りから彦崎駅近くの港まで砂利船で運びました.堤防は門が2重になっていて、通るときに一つずつ門を開けてもらって通ります.その後は倉敷川を遡ります.そのときは小さい船でした.50tから60tくらい.長さは20mに幅4mです.児島湾は通りぬけるところではあったけれど、特に水の様子とかも気になりませんでした.子どものときに遊んだのは、水門湾に流れる、ここの大川です.塩水は入って来ません.川幅は今よりさらに大きくて、魚といっしょになって泳いでいました.泳ぐと泥で黒く汚れるけれど、当時は近くの水泳場として年中泳いていました.水門湾も今とは違って泥でなく砂まじりの湾でした.アマモ場に恵まれた湾だったのです.シラウオもたくさんいました.カブトガニも居て漁師が手を焼いていました.子どもなどはカブトガニを蹴飛ばして歩いていました.いつの頃だったか、貯木場に使われていたことがあって、ロシアの船が材木を運んできて、ここに浮かばせていたのです.荷物を下ろすと船は宇野港に向かいます.滞在するのは宇野港でした.一面に材木が浮いている時代がありました.杭はそのときのものです.昔から、この辺の山を削って工事の資財に使って来たけれど、今もそれは続いています.近くでも山がひとつ消えそうです.
(聞き手、文/森千恵)
memo
小豆島からフェリーで児島湾の湾口に近づくと巨大な要塞が目に入る.(株)テイカの工場で、昭和17(1942)年にフッ化物、10年後には酸化チタンがここで製造がはじまった.児島湾の湾の奥が激しく姿を変える大工事が行われていたころ、この水門湾の干潟も、陸からは見えないところで激しく環境が変わっていたことだろう.この水門湾が豊かだったことを教えてくれる文があった.
・・・正儀(水門湾湾口部の集落)の女冠者は最も名あるもの.女豆芽(めくはじゃ)は女冠者または指甲螺またはしゃみせんがい.扁平長楕円にして緑色を帯び、長茎を有しこれを沙管に挿入して棲息す.これを捕獲して肥料とす・・・
参考:小林久磨雄(1915)『邑久郡誌』第2巻, 私立邑久郡教育会