児島湾海岸線 5つの時代
赤/児島湾漁撈回槽図の児島湾
黒/漁場争いがなくなった児島湾
緑/ムルドルの干拓がすすむ児島湾
青/藤田組の手を離れた干拓
橙/現在
元号/西暦 |
児島湾漁業を中心とした動き 文献と証言から y:湯浅照弘氏聞き取り m:森千恵聞き取り |
干拓/開発を中心とした動き |
展示 ※は可能であれば |
参考文献 |
貞享元/1684ころ |
◯阿津で樫木漁業が本格的に始まる ◯灘崎町付近でカキの養殖(モソロ牡蠣) |
●幸島新田 |
※池田家文庫絵図 |
湯浅, 1971 進・吉岡, 1978 平田, 1956 |
元禄5/1692〜1701 |
◯吉井川河口の漁場争い ○妹尾で児島湾漁撈回漕図が描かれる(1798年に塗り直し) |
●沖新田(約1918ha)完成福浜、芳田沖に旧堤防(高さ4m×幅4m×4km)、青江新田(約11ha) |
※池田家文庫絵図 ★児島湾漁撈回漕図(全体と部分) |
吉田, 1966 戸川時代研究会, 2002 |
/1735ころ |
◯阿津の樫木網が鳩島北がわに30帖あった ◯備前備中国之内領内分産物帳作成
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●北浦周辺、福田古新田の開墾 |
★樫木網写真 ※樫木漁具の一部 ※産物帳部分写真 |
小川, 1960 |
/1750ころ〜 |
◯幕府が裁定するまで頻繁に漁場争いが起きる ◯児島湾内一帯に樫木漁場(名前が明らかのものは17箇所)
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●宇藤木、荘内、八浜、彦崎周辺で小規模な開墾 ●伊能忠敬の備前測量 |
※撮要録内の樫木魚蔵図p.407 ※開墾面積グラフ |
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文政3/1820ころ |
◯漁場・国境争い決着 |
●興除新田開墾への動き |
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文政7/1824 |
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●興除新田839ha竣工 |
★干拓地図 |
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天保11/1840 |
◯八浜と妹尾の漁場紛争解決に尽力した八浜の岩城茂平に漁場が与えられる
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●味野の塩田開発
●槌が原、秀天周辺開墾 |
※撮要録図p.1795 |
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嘉永4/1851ころ |
◯外波崎(吉井川河口)、高島で海苔養殖を試みた結果、成功し大収益をあげたが沿岸村民の苦情で中止 |
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吉田, 1963 |
明治5/1872ころ |
◯八浜でモガイ(サルボウ)養殖の試み、ハイガイを中国(清)へ初輸出 ○慣習的に特権が認められて来た漁業権を無効とする判決(神戸地裁に続く大阪高裁) ◯岡山県から改めて樫木網漁業許可を受ける |
●興除沖に氏族授産地302ha |
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由比浜, 1960 玉野市史編纂委員会, 1970 |
明治14/1881ころ |
◯西井理太郎(阿津)が樫木普請の改良し、労働量大幅節減 ○海苔養殖再開 ◯貝養殖が盛んになり、養殖会社が濫立、やがて八浜に養貝組合設立
◯青江の干潟などで、うなぎのにぎりとり名人(竹原竹二郎さん、喜平治さんら)の漁民が多く見られる(青江130人、福田30人、妹尾352人)【y】 |
●ムルドルの児島湾測量 ●藤田伝三郎、干拓事業への動き
●三蟠—倉敷間に蒸気船、定期航路、阪神方面、四国とも航路がつながる |
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湯浅, 1971 由比浜, 1960 玉野市史編纂委員会, 1970 |
明治22/1889ころ |
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●藤田組に児島湾開墾許可 |
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○八浜に藤原元太郎らを中心とした養貝会社設立 ◯藤田組への開墾許可取消請願 |
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明治24/1891 |
○開墾許可取消請願、却下 ◯養殖用の種貝不足、中海(島根県)より購入 |
●三菱、干拓に3万4384円投じ、赤字 ●岡山に汽車 |
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佐藤, 2008 由比浜, 1960 |
明治26/1893 |
○有明海からアゲマキを購入 ◯漁業法草案作成 |
●興除沖に三菱開墾、杉山開墾 ●このころ小串村周辺で硫酸原料が発見され、製錬所ができる |
★アゲマキ写真 |
由比浜, 1960 |
明治27/1894 |
○貝養殖会社が八浜漁民へ補償金を支払う |
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明治29/1896ころ |
○北浦樫木定置漁業権13株を売却(3500/株) ◯レプトセファルスがウナギの仔魚であることが発見される |
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湯浅, 1971 |
明治31/1898 |
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●藤田組に児島湾開墾一区二区の起工許可 |
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明治32/1899ころ |
○藤田組と妹尾、甲浦、北浦、倉敷、八浜、福浜、青江 、平井などの間で転業補償金支払いの契約が次々と結ばれて行く ○明治漁業法(35条から成る法律34号) ○児島湾外の児島漁師の朝鮮出漁が盛ん |
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明治35/1902 |
○貝養殖会社と八浜漁民の間で補償契約更新 ◯児島湾の貝養殖場面積は330ha、朝鮮でのウナギ養殖事業も展開 |
●一区、二区堤防完成 |
★興陽高校コレクション |
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明治39/1906 |
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●宇野港建設開始(1909年竣工) |
★興陽高校コレクション |
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明治42/1909ころ |
◯岡山県水産試験場は有明海からスミノエガキを妹尾、大潟に移植するなど、養殖実験を行う ○八浜漁業組合との罰則付き契約により児島湾養殖事業を藤原元太郎の養殖会社が独占 ○阿津八幡の秋祭り祭礼が姿を消す【y】 |
●一区竣工 |
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岡山県水産試験場, 1911 |
明治45/1912ころ |
◯彦崎川(現在の倉敷川)を出入りする船が多く彦崎港は潮待ちの中間泊地であった
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●二区竣工 ●藤田村創始 ●拘泥堤工事着手 ●倉敷川奉還の渡舟(高崎—藤田大曲2銭〜3銭) |
※大曲付近の写真 |
灘崎町50周年記念事業特別委員会, 1956 |
大正2/1913ころ |
○三区、五区には1200haの干潟があり、潮流が速い神主澪(カンヌシャミオ、またはカンノシャ)と呼ばれる澪筋は幅約500m、深さ約6.5mであった ○このころは阿津の住民の8割は魚の加工、販売などをしており、魚の小売りは20人〜30人いた【y】 ○大阪市場向けのウナギ漁始まる ○貝養殖場にカニが大発生、大きな損失
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●三区、五区の拘泥堤起工 ※写真 ●このころから1941年までの30年間の堆積量は10cm〜45cmと見積もられている
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★ 現在の写真 ※地図 |
田中, 1968
玉野市史編纂委員会, 1970 |
大正3/1914 |
○現在の六区付近にカワキタ漁場、大崎(玉野市)付近にイワシマ漁場、テラドオシ漁場、ハチハママエ漁場、ジノウミ漁場があった |
●藤田神社建立
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★興陽コレクション |
湯浅, 1971 |
大正4/1915 |
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●三蟠軽便鉄道(1931年まで)操業、九州から運搬される燃料と巡礼客をのせた船で三蟠港がにぎわう |
※軽便写真 |
三蟠村史編纂委員会, 1982 |
昭和2/1927ころ |
◯ヨーロッパウナギ、アメリカウナギの産卵場発見 ◯阿津耕地整理組合ができる ◯八浜には大漁師は14軒あり、北浦のタテガシも5軒あったが昭和12年ころにはやめた【y】 ◯浦安西町から海岸通りの北側を東西に走る道沿いに1430本の松が並ぶ並木道があった |
●現在の岡山製紙付近にあった老樹が繁る薮はなくなり、船着場ができた ●藤田組事実上の破綻 |
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岡山県御津郡福濱村, 1927 |
昭和8/1933 |
◯湾岸漁協が三区、五区開墾に反対(和議に貢献した阿部文治郎の名前が池の名前になる) |
●1912年に着手した拘泥堤が完成し、三区五区の本工事着手 ●このころ、旭川東部に改修浚渫工事で出た土砂が置かれ、それを利用して倉敷絹織岡山工場地を建設 |
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昭和10/1935 |
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●三区五区潮止め工事成功 藤田組、岡山港の埋立権を岡山県に寄付 |
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昭和15/1940 |
○福浜、藤田、灘崎、八浜の子どもたちの日課にカタイタにのって干潟で貝やウナギとりがあった【m】 |
●このころ、六区堤防建設着手 ●三区五区の東部使用目的変更、区分竣工 ●県内外の貨物集散地の三蟠港 |
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昭和17/1942 |
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●テイカが吉井川の河口でフッ化物生産開始 |
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昭和18/1943 |
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●七区事業を農地開発営団が藤田組から引き継ぐ |
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昭和19/1944 |
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●七区堤防建設着手 |
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昭和21/1946 |
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●南海大地震で干拓地被害 |
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昭和22/1947 |
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●六区、七区工事が農林省直轄になる |
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昭和23/1948ころ |
○6月に七区の堤防ができた後の8月に網をかけてみたが捕れぬのでやめた【y】 |
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昭和26/1951ころ |
◯樫木網漁場が北浦に13カ所、阿津に2カ所あった【y】 |
●児島湾沿岸農業水利事業(〜1959年) ●テイカが吉井川河口で酸化チタン製造開始 |
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昭和30/1955ころ |
○潮の出入りがあった笹ヶ瀬川鉄橋より下流側でアゲマキ(チンダイガイ)をとって潮が入って来るのをまっていた(水門湾の水運業者)【m】 |
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★笹ヶ瀬川河口写真 |
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昭和31/1956 |
○堤防で児島湾を閉め切った後、2、3年は樫木をやっていた(阿津の樫木漁師)【y】 ◯子どものときに樫木網をひっぱりあげて怒られた(宮浦の農家)【m】 ◯妹尾の漁民の漁獲が、アゲマキ、カキからタイワンドジョウ、フナなどに変わっていく |
●児島湾締切堤防潮止工事完了 ●真夜中に、1枚あたり500円の賃金で潮止の鉄板の板を落とす仕事をした(宮浦出身漁業者)【m】 |
★興陽高校コレクション |
佐藤, 1958 |
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