【児島湾の干拓】児島湾では、有明海と同じように古くから干拓が行われて来た.干拓地は規則正しく区切られ、そこにつくられた農村では、早くから農業の機械化や共同化が進められた.しかし最近では、ここにも都市化の波がおしよせている.
(1978, 学校図書)
・・中国山地は、風化してくずれやすい花崗岩からなっています.その土砂が川によって運ばれ、波のしずかな入り江にそそがれるので、河口付近には、土砂がつもって、遠浅の海とないrます.江戸時代には、この遠浅の海を干拓※して、さかんに新田がつくられました.それが、今では埋め立てが行われて、大規模な工場用地にされるようになったのです.
※例えば、児島湾では、すでに江戸時代から、干拓が行われていました.明治以後、さらに大規模にすすめられ、今ではかつての児島湾の一部は淡水の児島湖となり、干拓地の用水に使われています.
(1978, 大阪書籍)
江戸時代から進められて来た児島湾の干拓地は、広い水田となった.
(1980, 学校図書)
・・・また、児島湾の沿岸では、むかしから干拓によって水田がつくられてきた※現在では、湾の入り口は締め切られて淡水湖となり、その水は用水に利用されている.
※干拓地の農業 瀬戸内の沿岸には干拓地が多いが、児島湖沿岸の干拓地につくられた興除村や藤田村は、はやくから農業の機械化のすすんだ村として知られて来た.
(1971, 清水書院)
【児島湾の干拓】児島湾では、古くから干拓が行われ、第二次世界大戦後には、政府が大規模な工事を行った.干拓され、塩分がのそかれた土地は、規則正しく、大きく区切られている.そのうえ、一戸あたりの耕地面積が広く、機械化が進み、種もみを直接水田にまく、直播栽培もみられる.
(1975, 学校図書)
・・さらに、ここは第二次世界大戦前から動力耕耘機を使う農家が多く、岡山県の児島湾の干拓地とともに、早くから機械化がすすんだ地域として知られている・・
・・はじめは外国の大型トラクターを輸入したが、地盤がやわらかい田ではうまく使えなかった.
【児島湾の干拓】岡山県の児島湾は、16世紀から干拓が行われて来たが、明治時代になってから大規模な干拓がすすめられ、いまでは、湾内の大部分が耕地にかわっている.干拓地の人々は、耕地の区画が大きいのを利用して、早くから機械化をすすめてきた.はじめは外国の大型トラクターを輸入したが、地盤がやわらかい田ではうまく使えなかった.しかし、その後も熱心に研究をすすめ、ついに大正の終わりには干拓地に適した独特の小型耕耘機を考え出した.これを1930(昭和5)年ごろから実用化し、1938(昭和13)年ごろには興除村や藤田村を中心に1000台をこえる耕耘機が使われるようになった.この地域が、日本の農業の機械化にはたした役割は大きい.
(1971, 教育出版)
児島湾には、大規模な干拓地がつくられ、興除村・藤田村(現在岡山市)では、第二次世界大戦前から機械化がすすめられ.わが国の農業の機械化にはたした役割は極めて大きかった.
(1978, 教育出版)
【児島湾の干拓】児島湾は有明海とともに、むかしから干拓がさかんであったが、今は灌漑用の淡水湖となった児島湖のほかは、すべて干拓されて陸地になっている.この干拓地に開かれた興除(岡山市)は、最も早く動力耕耘機を取り入れた所として知られている.また隣りの藤田(岡山市)は、明治時代に、月給で農業労働者をやとって米をつくらせる大農場ができた所で、今では、大型のトラクターやコンバイン(刈り取りと脱穀を同時にする機械)など・・
(1978, 日本書籍)
・・遠浅の湾内では、九州の有明海や岡山県の児島湾のように、むかしから干拓※がすすめられてきたところが多く、近年は埋め立てによる工業用地の造成がさかんである.外界に面した出入りの少ない海岸でも、人工的に入江をつくって港にし、工業地域につくったところもある.今では日本の海岸の半分以上が自然の姿を失っている.
※干拓は海や湖を堤防で仕切り、排水して陸地にすること.
(1980, 日本書籍)
【干拓地の農業】瀬戸内海の沿岸には、干拓地が多い.遠浅のつづく内海は、防潮堤を築いて海をしめきり、干拓地をつくるのに適していた.古くから干拓地が造成されたが、なかでももっとも広いのは児島湾の干拓地である.干拓地の土壌は、肥えているが、粘土質で耕作しにくいこともあって、わが国で最初に耕耘機が普及したのは、この地方であった.児島湾干拓地から岡山平野の軟部にかけては、米とい草の二毛作がさかんである・・
(1980, 東京書籍)
【瀬戸内の先進性】・・また、遠浅で波の静かな海岸には、児島湾をはじめとして広い干拓地がつくられている.
(1981, 東京書籍)
【児島湾の干拓】瀬戸内海沿岸には干拓地が多い.なかでも児島湾は役70%が干拓され、干拓地につくられた興除村(現在岡山市)や藤田村は、早くから機械化の進んだ農村として知られている.水田は大きく区画され、動力耕耘機や小型のコンバインを用い、多くの収穫をあげている.
(1975, 東京書籍)
児島湾は有明海と同じように、むかしから干拓がすすめられてきた所で、今は灌漑用に残され淡水湖となった児島湖のほかは、全部が陸地になっている.この干拓地に開かれた興除村は、最もは約から動力耕耘機を取り入れた所として知られ、一戸あたりの耕地面積が広い.隣りの藤田村には、耕地の境界を取り去り、共同で大型のトラクターやコンバイン(刈取りと脱穀を同時にする機械)などを取り入れた農家もある.
(1972, 日本書籍)
【ポルダー】オランダ人は、北海の一部や内陸の低湿地を堤防で囲み、干拓地の造成に力を入れてきました.これがポルダーで、おもに農地に用いられます.むかしは風車で排水しましたが、いまはディーゼルエンジンを使います.オランダの干拓技術は世界でもっともすぐれ、日本でも、八郎潟や児島湾の干拓に、この技術をと取り入れています.しかし、1953年には嵐で堤防が破れ、2000人以上が志望しました.ポルダーの造成は、まさに海との戦いなのです.
【児島湾の干拓】岡山平野の南の児島湾は、明治以前から干拓が続けられてきました.明治になってからは、オランダの干拓技術も利用され、今ではわんの大部分が耕地となり、規則正しく、大きく区切られた水田がみられます.干拓地の興除地区の農民は、かつては、わずかの土地をたがやす小作農民でした.大正時代から、団結して小作料をさげさせたり、地主が勝手に土地をとりあげないように、こうさくする権利をみとめさせるなどの、農民の利益を守る運動をしてきました.ここでは、昭和のはじめごろから、耕耘機が普及して、早くから機械化された稲作の村として知られています.上流で余った水しかもらえない干拓地では、水の不足がおおきな問題でした.最近では、ダムをつくったり、児島湾を締め切って淡水湖を作ったりして、その水を農業用水に利用しています.
(1981, 帝国書院)
【児島湾の干拓】岡山県の児島湾は、16世紀から干拓が行われてきたが、明治時代になってから大規模な干拓がすすめられ、いまでは、湾内の大部分が耕地にかわっている.干拓地の人々は、耕地の区画が大きいのを利用して、早くから機械化をすすめてきた.はじめは外国の大型トラクターを輸入したが、地盤がやわらかい田ではうまく使えなかった.しかし、その後も熱心に研究をすすめ、ついに大正の終わりには干拓地に適した独特の小型耕耘機を考え出した.これを1930(昭和5)年ごろから実用化し、1938(昭和13)年ごろには興除村や藤田村を中心に、1000台をこえる耕耘機が使われるようになった.この地域が、日本の農業の機械化にはたした役割や大きい.
(1975, 教育出版)
児島湾では、長い間の努力の結果、湾内の大部分が干拓されて水田となり、・・・
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【昭和期以前の開墾面積合計】
児島湾北岸開墾1624〜1698 4235.413 ha
児島湾西岸1624〜1867 2891.225 ha
児島湾東岸1640〜1862 39.24 ha
児島湾南岸荘内1640〜1852 133.743 ha
児島湾南岸灘崎地区1794〜1866 217.782 ha
240年間(1624〜1866)の開墾面積 約7517.403 ha
氏族授産目的開墾1868〜1904 669.151 ha
【昭和の干拓面積合計】
第一区(庄内、灘崎に編入)1899〜1905 468 ha
第二区(大曲、都、錦)1899〜1912 1219.8 ha
第三区・五区(海岸通ほか)1933〜1935または1950 1200 ha
第六区(藤田村、都、錦に編入)1914〜1941 914.3 ha
第七区(玉野市、灘崎町に編入)1944〜1960 1582.2 ha
児島湖1951〜1956 1090 ha
61年間(1899〜1960)の開墾面積 約6474.3 ha
【児島湾北岸開墾】
年号 西暦 開墾地名 旧村名 ha
寛永 1 1624 平福新田 福浜村 22.454
寛永 2 1625 福島新田 福浜村 79.134
寛永 5 1628 濱田新田 福浜村 58.097
寛永 5 1628 福富新田 福浜村 95.484
寛永 5 1628 米倉新田 芳田村 33.245
寛永 5 1628 泉田新田 芳田村 86.11
寛永 7 1630 福成新田 古鹿田村54.391
寛永 8 1631 福田新田 福浜村 102.678
寛永 14 1637 万倍新田 芳田村 30.52
寛永 19 1642 平吉新田 今村 17.876
正保 4 山﨑新田 福泊村 35.97
承応 3 1654 当新田 芳田村 124.369
寛文 3 1663 松崎新田 可知村 116.739
寛文 3 1663 金岡新田 金田村 253.316
寛文 11 1671 辰巳新田 今村 23.871
延宝 1 1673 尾上新田 福浜村 26.814
延宝 7 1679 倉田新田 操陽村 359.264
貞享 1 1684 幸島新田 幸島村 612.253
元禄 5 1692 沖新田 沖田村 2090.62
元禄 11 1698 青江新田 福浜村 12.208
【児島湾西岸開墾】
寛永 1 1624 加須山等新田 帯江村 109
寛永 4 1627 宮崎割新田早島村 21.8
寛永 4 1627 早島新田 早島村 247.866
寛永 4 1627 帯江新田 帯江村 216.147
寛永 5 1628 大福古新田大福村 101.915
寛永 8 1631 大副新田 大福村 141.155
寛永 11 1634 内新田天城村 10.9
寛永 19 1642 粒浦新田 粒江村 140.937
承応 1 1652 八軒屋新田粒江村 35.97
承応 1 1652 亀山新田 帯江村 109
承応 1 1652 西田新田 豊洲村 91.342
承応 2 1653 藤戸古新田藤戸村 2.616
承応 3 1654 藤戸松新田藤戸村 5.45
万治 3 1658 外新田天城村 28.34
万治 3 1658 町新田天城村 1.744
万治 3 1658 片原新田 天城村 3.815
寛文 1 1661 小濱新田 藤戸村 8.72
寛文 1 1661 大濱新田 藤戸村 5.45
寛文 3 1663 久々原新田早島村 25.07
寛文 4 1664 葭野新田 早島村 19.62
寛文 4 1664 箕島新田 箕島村 20.71
延宝 4 1676 高沼新田 羽島村 111.398
延宝 7 1679 高沼新田 帯江村 54.5
延宝 7 1679 高須賀新田豊洲村 51.23
延宝 7 1679 前潟新田 早島村 125.895
天和 3 1683 宮崎割新田早島村 11.99
元禄 1 1688 村前新田 妹尾村 3.161
元禄 1 1688 外野新田 大福村 25.833
元禄 3 1690 多七新田 大福村 1.962
元禄 3 1690 作右衛門新田 大福村 3.161
元禄 3 1690 浜前新田 大福村 3.161
元禄 3 1690 添新田豊洲村 12.535
元禄 7 1694 大福東新田大福村 5.886
元禄 8 1695 九郎右衛門新田大福村 1.308
元禄 11 1698 吉川新田 早島村 8.72
元禄 11 1698 川子岩新田 天城村 4.905
元禄 16 1703 八郎右衛門新田妹尾村 2.725
宝永 4 1707 植松新田 植松村 17.44
宝永 4 1707 早島新田 早島村 135.378
宝永 4 1707 帯江新田 帯江村 99.735
文政 4 1821 興除新田 興除村 856.74
文政 6 1823 興除新田 興除村 0
慶応 3 1867 黒住開墾 東畦 5.995
【児島湾東岸開墾】
寛永 17 1640 八浜古新田八浜村 1.635
宝永 3 1706 八浜古新田八浜村 10.9
天保 7 1836 中磯古新田大崎村 2.398
天保 9 1836 恵崎新開大崎村 4.687
文久 3 1862 廣戸新開大崎村 19.62
【児島湾南岸開墾】
寛永 17 1640 用吉新田 37.06
寛永 17 1640 槌が原新田 10.9
正徳 2 1712 長崎新田 21.8
寛政 12 1800 吉原新田 2.725
享和 1 1801 土川新田 0
天保 1 1830 赤羽根新田 3.27
天保 1 1830 家の下新田 2.725
天保 3 1832 新開 0.218
天保 4 1833 長崎新田 19.62
天保 4 1833 用吉新田 8.066
天保 4 1833 向新田 6.431
嘉永 5 1852 恵左衛門新田 11.99
嘉永 5 1852 脇新田 8.284
嘉永 5 1852 脇浦新田 0.654
【児島湾南岸 灘崎地区】
寛政 6 1794 八兵衛新田 3.379
文化 9 1812 明かし新田 10.028
弘化 3 1846 明石沖新田 12.317
嘉永 4 1851 狐崎新田 8.066
万延 1 1854 宮免新田 1.308
万延 1 1854 磯新田 0.436
元治 1 1864 弁天新田 2.507
寛政 8 1796 四間割新田 3.924
寛政 8 1796 二畝割新田 2.289
文化 4 1807 東新開 5.559
文化 10 1813 西新開 6.54
文化 10 1813 新川新開 11.554
天保 2 1831 中新開 16.241
弘化 3 1846 東沖新開 16.677
嘉永 2 1849 古屋下新開 4.687
文久 2 1862 尾畑新開 7.739
文政 6 1823 西岡新開 3.815
文政 6 1823 中磯岡新開 3.488
文政 6 1823 浜岡新開 3.27
天保 11 1840 中磯中新開 4.687
嘉永 2 1849 西中新開 6.976
嘉永 2 1849 葭野新開 9.265
慶応 2 1866 浜中新開 3.161
慶応 2 1866 中磯沖新開 6.213
慶応 2 1866 赤崎沖新開 12.644
文政 7 1824 東新開 4.687
文政 7 1824 西新開 3.815
慶応 2 1866 東西沖新開 20.274
慶応 2 1866 堅述新開 3.815
文政 3 1820 古新開 1.308
文政 3 1820 赤羽根古新開 0.981
文政 7 1824 船着西新開 2.834
文政 10 1827 宮下東新開 2.834
天保 1 1830 宮下西新開 3.27
天保 1 1830 赤羽根新開 1.853
天保 3 1833 堤下新開 0.327
天保 10 1840 添新開 0.872
慶応 2 1866 船着西沖新開 4.142
【氏族授産目的の開墾】
明治 8〜11 1875〜1878 曽根一番開墾 興除村曽根 43.6
8〜12 1875〜1879 曽根一番開墾 玉丁場 27.25
8〜13 1875〜1880 曽根一番開墾 中丁場 0
8〜14 1875〜1881 曽根一番開墾 天城丁場 29.43
8〜15 1875〜1882 曽根一番開墾 繰替地 21.8
8〜16 1875〜1883 亀浜新田 西畦 13.08
8〜17 1875〜1884 鶴浜新田 西畦 4.36
9 1876 都宇開墾 東畦 29.757
10 1877 一番開墾 東畦 41.42
10 1877 一番開墾 内尾 45.78
10 1877 一番開墾 中畦 104.64
9〜26 1876〜1892 杉山開墾 内尾 70.85
11〜36 1878〜1903 都宇開墾残地 東畦 33.79
11〜37 1878〜1904 学校地 0
11〜38 1878〜1905 垣内開墾 中畦 70.523
13〜26 1880〜1893 三菱開墾 東畦 70.632
37 1904 曽根残地 曽根 43.6
7 1874 明治新開 彦崎村川張 3.27
1 1868 浜沖新開 灘村片岡 2.725
2 1869 宮下東沖新開 灘村片岡 3.488
1 1868 長崎沖新開 槌ヶ原 4.36
1 1868 泉谷新開 槌ヶ原 4.796
【児島湾北岸開墾】
明治 38 1905 児島湾開墾第一区海面埋立地東高崎
(旧村名)児島郡荘内村外二ヶ村地先 461.724
明治(大正1)45 1912 児島湾開墾第二区海面目立地 大曲、都、錦
(旧村名)児島郡興除村地先 1063.077
児島湖発達史編纂委員会(1972)『児島湖発達史』児島湖関係団体記念事業協賛会
C.M